漢方診療・再発見
7 中医・韓医と日本漢方
加島 雅之
熊本赤十字病院 総合内科
熊本大学大学院医学教育部
病態解析講座 医療情報医学分野 |
漢方医学(ここでは中国系の伝統医学の総称として用いる)は中国漢代に淵源を発し、約2000年という悠久の時とユーラシア大陸の東方という広大な地域に広がり様々な形の医学を形成しながら伝承されてきた。その中で今回は現存する漢方医学の中で特徴と一定の広がりを持つ日本漢方・中医学・韓医学を紹介したい。
1.日本漢方
大陸と交流が始まった時と期を一にしている。
その中で現在にまでつながる医学の形として姿を現すのは、安土桃山代に同時期の中国の明代後期の医学を輸入し体系化・マニュアル化(この診療システムを「察証弁治(さっしょうべんち)」という)を行った曲直瀬 道三(まなせ どうさん)の曲直瀬流である(後述の「古方派」と対比して「後世派」と呼ばれる)1)。この流派は江戸時代中期まで日本の漢方医学の主流をなしたが、徐々にマニュアル化された方法論の固定的運用と安易で無難な治療法に堕してしまった。
江戸時代中期に吉益東洞(よします とうどう)らによる医学革命が行われ、後の日本の漢方医学の方向を決定づけられた。この流派は古方派と呼ばれる。
古方派は漢方医学理論の全てを否定し(吉益東洞に至っては医学に理論があることそのものを否定しようとしている)2, 3)、中国の後漢の末に誕生したとされる傷寒論(しょうかんろん)・金匱要略(きんきようりゃく)の処方を中心に、症状・症候の組み合わせに対して一対一対応のように使用する(この方法論を「方証相対(ほうしょうそうたい)」という)。
古方派の誕生の背景には治療対象となった人々が大衆にまでに広がったこと、梅毒やコレラなどの難治性感染症の流行、堕落した後世派へのアンチテーゼ、当時流行した朱子学の理論性を否定した復古儒学の強い影響がある4)。
この後の日本の医家は立場の差はあるが、個々に古方の方法論と伝統的漢方概念・理論を自らの経験・見識で折衷する形で医学を形成していく。
明治期に入り政府により漢方に対する弾圧が行われ、江戸時代よりの系譜はほぼ断絶してしまう。少数の医師らの手により明治末から昭和初期にかけて漢方の復活が図られた。
その主だった流派には古方派の流れをくむ2流派(後の大塚敬節のグループと千葉古方と呼ばれるグループ)と後世派の流れをくむ1流派(一貫堂医学といわれるグループ)、古方派・後世派の中間的立場をとる1流派がある。昭和の初期にこうした諸流派が共同して金字塔というべき教科書が編まれた。
「漢方診療の実際」である(1969年以降は「漢方診療医典」に改名)。この本はその序文にあるように西洋医学しか学んだことがない医師が全く予備知識なしに漢方の実践を図ることができることを目指して作成された。
版を重ねる過程で、臨床上の必要性および漢方医学としての体面の問題から、ある程度の漢方概念を導入せざる得なくなった。
しかし、先に述べるように伝統中国医学の体系を引き継ぐ後世派と一方でその根幹からの否定を目指した古方派の矛盾を解決せず、なおかつ、全く漢方の素養のない者に概念を説明するためには、伝統的な漢方用語を新たに定義し直し体系化することとなった。
そこでは本来、病態を説明するための諸概念が、ある種の病状を分類する概念として理解される形となっている。
現在の日本漢方の陰陽・虚実・寒熱・瘀血・水毒などの用語の概念および、西洋医学の診断名を縦糸に用い、日本漢方を特徴づける一つである、臨床的ポイントを表す口訣(くけつ)・日本で独自に発展した診察法である腹診・簡単な脈診を用いて、漢方概念で表わされる分類項目に当てはめ、これを横糸として処方を決定するというシステムはこの本によって完成した5, 6)。
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2.中医学
現代の中医学と呼ばれるものは共産革命後に中国政府の命令によって、その当時の伝統中国医学を集大成することで形成された。
その手本とされたのは、清代末に西洋医学の流入に対抗すべく伝統医学の学校における近代教育の試みが浙江省の私学校でなされたものであった7)。その教育は西洋医学の教育・診断の方法論に倣い、基礎理論・生理・解剖・病理・症候学と続く内容となっている。
診断システムもまずどの臓腑系統のシステムの異常かを確認した上でその病態生理を把握するものとなっており、現代の中医学の教育・臨床システムもその体系を受け継いでいる8)。中医学の診断から治療にわたる診療システムを「弁証論治」(べんしょうろんち)という。
この意味は病態である「証」を診断しそれに基づき治療法を議論するということである。同じ診断名の病態であっても合併状況、進行の状況に基づき様々な選択を考え治療戦略をたてる。
前述の日本漢方の「方証相対」の、ある種の処方が有効である症状の組み合わせという言わば“症候群”としての意味合いの「証」に対して、一対一対応の処方を選択するというシステムとは好対照である。
処方の理解も日本漢方では処方単位での理解となるのに対して、中医学では処方を構成している一つ一つの生薬の薬能が目的としている病態にどう有効であるかという視点が重視される。
こうした病態分析の基本となる漢方概念や薬能概念は主に明代後期に確立している9)。また、清代に確立した「温病学」(うんびょうがく)といわれる感染症学、清代末から中華民国時代に西洋医学の影響を受けて発展した伝統医学の一派(「医学中西匯通派」と呼ばれる)の影響、中西結合といわれる西洋医学の知見を積極的に漢方医学に結びつける試み、および学校教育を行う為の臨床体系の構築(こうした臨床形態を「学院派」とよぶことがある)が現代中医学を特徴づける。
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3.韓医学
朝鮮半島における漢方医学の流入の起源も日本と同様、中国との交流の始まりまで遡る。
こうした中で、現代につながる韓医学は約400年前の「東医宝鑑」(とういほうがん)によって成立した。この医学は同時代の中国明代後期の医学を集大成した内容であり、同時期の日本の曲直瀬道三が著した「啓迪集」(けいてきしゅう)と非常に類似した体系となっている。
ただ二つの体系を比較すると、東医宝鑑は生理的な視点を重視し、予防医学・健康増進(伝統的には「養生」と表現される)に重点が置かれる10,11)。
現代の韓医学においても、疾病の治療の中心は鍼灸療法であり、薬物療法は養生に重点が置かれている。実際の診療の方法論では、症状・症候の伝統的分類の項目を東医宝鑑やそのダイジェスト版である「方薬合編」(ほうやくごうへん)、その他の信奉するテキストで検索し、そこに書かれている処方を中心に、状況に合わせて薬物論に基づき若干の調整(この過程を「加減」という)をして用いるという伝統的な漢方医学のある種の方法論が残存している。
また、約100年前の李氏朝鮮末に生まれた「四象医学」も韓医学の特徴的な内容の一つである。
この医学では人体の気の昇降・集散の傾向と消化吸収機能の壮健さにより人を先天的な4つの体質に分類し、その体質診断に基づき、先天的生体の偏りを矯正する処方を服用することで治療・養生を目指す体系である12)。
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4.おわりに
上記のように漢方医学はその地域や環境、歴史的経緯を踏まえてそれぞれに特徴的な医学が育まれてきた。
こうした一見大きく異なり矛盾しあうように見えるそれぞれの医学体系もその本質的な内容を理解することで、漢方医学に共通する人体をとらえる視点が理解できると筆者は考えている。そうした内容を踏まえて研究が行われることでより豊富な恩恵を漢方医学から得られるであろう。
筆者紹介 |
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氏名 |
加島 雅之(かしま まさゆき) |
所属 |
熊本赤十字病院 総合内科
熊本大学大学院医学教育部
病態解析講座 医療情報医学分野 |
略歴 |
2002年 |
国立宮崎医科大学医学部
(現:国立宮崎大学医学部医学科)卒業 |
2002年 |
熊本大学医学部総合診療部入局 |
2002年 |
熊本大学医学部第2 内科(血液・膠原病内科)勤務
熊本赤十字病院勤務 |
2003年 |
国立熊本病院(現:国立熊本医療センター)勤務 |
2004年 |
沖縄県立中部病院 総合内科国内留学 |
2004年 |
熊本赤十字病院 救急部勤務 |
2005年 |
熊本赤十字病院 内科勤務〜 |
2006年 |
亀田総合病院感染症科短期留学 |
2007年 |
熊本大学大学院 社会人大学院入学(医療情報医学) |
日本東洋医学会熊本県部会 幹事 2007年度〜
熊本県東方医学研修会 理事 2008年度〜
日本中医交流協会 理事 2008年度〜
国際東洋医学会日本支部 評議員 2010年度〜 |
研究テーマ |
救急疾患・難治性疾患における漢方医学の包括的応用
漢方医学の普遍的法則性の発見と実践応用できるシステムの開発 |
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